『国葬(という名の儀式)』とSessionオンラインイベント「『国葬』『宗教と政治』を考える」と

今日は1日普通に仕事をしていた。なんなら職場で「国葬」という単語も出ず、仕事をし、ラジオを聞いていた。Sessionのリスナーだ。と言いつつ、基本的には気になった特集を聞いたりその日のニュースコーナーを聞いたり聞かなかったり、日によってまちまちである。

とはいえ今日は16時ごろYBS山梨放送のプチ鹿島がパーソナリティをしているキックスからTBSに変えた。ちょうど菅氏の追悼の辞というのだろうか。それが放送されていた。

全部をしっかり聞いたわけではなかったが、こんなことをするために税金が使われたのか。と膝から崩れそうになった。なったし、やるせない気持ちになった。前総理大臣が亡くなった前々総理大臣を「総理、総理」と呼んでいる。いまは違うし、なんならあなたも総理だった。あなたが総理だったとき、あなたにとって安倍氏はなんだったんだろう。仮に「総理」だったとしたらそれはあまりにも当事者意識がないではないか。

「天はなぜ生命を召し上げてしまったのか」と言っていたが、召し上げたのではない。暴力によって命を奪われたのだ。運命論のようで気に食わない。起こってはいけないことが起こったことに憤るのはわかるが、なぜ「天が召し上げてしまった」という言葉を選んだのだろう。などと思いながら、Sessionの配信イベントを見るために19時ごろ会社を出た。すでに遅刻している。

配信イベントは有料のイベントなので多くは語りづらいが、番組ファンの自分としては見てとてもよかった。チキさんと南部さんが放送よりも少しだけリラックスしているように見えたからだ。

昼の時間帯に移り、夜の時間帯だったときよりも「ニュース番組」としてのウェイトが大きくなった気がする。新型コロナウイルスが世の中を変えてしまってから時間帯が変わった。というのもあるかもしれない。そこに今回の事件や政治と宗教問題、から宗教二世…と穏やかな特集が本当に少なくなった(MUC音楽考の配信イベントでもそんなことを言っていたが)。個人的にもなかなかオープニングトークやエンディングトークを聞かない。というのもあるかもしれない(だって聞きたくてもPodcastで配信していないんだもの)。

イベントの中でTBSのアーカイブだろうか。過去の「国葬」での音声と今回の「国葬(という名の儀式)」での音声を比較していたのだが、

こんなことをツイートした。でも、本当に少ないだろうか。少ないかもしれないが、感化されるひとはめちゃくちゃ感化されるんだろうな。などと思った。死を政治利用するのが「国葬」なのだな。という印象は変わらない。岸田氏にしても菅氏にしても、あれで感動してしまうひともいるのだろう。もうそれは仕方のないことだと思う。

それにしても岸田氏にしても菅氏にしてもあの「追悼の辞」とはなんだったんだ。あんなものを言うために16億使ったのか。ふざけないでほしい。

なにが「若い人々を、とりわけ女性を励ましました。子育ての負担を少しでもやわらげることで希望出生率をかなえようと努力をされた。」だ。

真逆だっただろう。

なにが「私はいつまでも懐かしく思い出すだろうと思います。そして日本の、世界中の多くの人たちが「安倍総理の頃」「安倍総理の時代」などとあなたを懐かしむに違いありません。」だ。

忘れるわけがないだろう。安倍政権下で『保育園落ちた日本死ね』という匿名のブログが公開されたことを。コロナ禍で意味のない布マスクを税金使って配ったことを。同性婚も夫婦別性も実現していないことを。モリカケサクラを。どれもこれも、忘れるわけがないだろう。

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