「これは差別じゃないんですけど」の後に続く文章はたいてい無知と偏見による差別が綴られる

タイトルで言いたいことは全部言ってしまいました。
インターネット(SNS)の世界にいるとこういうのに遭遇するするのは日常茶飯事ですし、思い返せば自分だって何年か前までは言葉にこそしなくても近からず遠からずなことを思っていた気がします。

なぜ「これは差別じゃないんですけど」と前置きをすれば差別的なことを言っても大丈夫。と思うんでしょう。きっと「本気で差別じゃない」と思っているんでしょうが、そういう前置きをしなければ言語化できないことという時点で差別的であると気づくべきだとも思います。

前の職場にも「これは差別じゃないんだけど」や「これはパワハラじゃないんだけど」と言う上司がいましたが、僕からしてみれば差別的だったしパワハラでした。前置きすることで免罪符になると思っているのかもしれませんが、なりません。

今年『差別はたいてい悪意のない人がする』という本を読みました。マイノリティや人権、差別論を専門としている韓国の大学教授が日常に溢れる“差別”について綴ったエッセイなのですが、その中で筆者が差別的な発言をしてしまったときに「その言葉がどうしたっていうの?どこが問題なの」と、自己防衛の思考に陥ったというのです。

マイノリティや人権、差別論を専門としている大学教授がです。

じゃあ僕は。より無意識や無自覚の中で、無知や偏見による差別をしているのではないか。そう考えること方が自然です。
自分は差別をする可能性のある人間である。いや、現代社会においてマイノリティですら他のマイノリティに対する差別をしてしまうことは大いにあります。

何がいけないのか。難しいとは思いますが、インターネットでも現実社会でも、指摘されることがあったら調べてください。調べてもわからなかったら本を読んでください。
先程上に挙げた『差別はたいてい悪意のない人がする』もいい本です。

いままで言ってきたことを同じように言っても差別だ。と指摘されることは今後より増えるかと思います。何がいけないんだ。悪くないだろう。と言いたくなる気持ちもわかります。

それを生きづらい。と言うのであれば、当事者にとってそれ以前が生きづらかった世界だと思います。

多様性というのは素晴らしいことであるかのように語られますが、実際は自分とは違うものを許容することで面倒だな。と思うことでもあると思います。自分にとっての生きづらさと言うのは他者にとっての生きやすさと言っても差し支えがないのではないでしょうか。

自分が何かをジャッジできると思うから、違和感を迂闊に言葉にしてしまうことが差別的なことを言ってしまうのかもしれません。

じゃあ何も言うな。と言うのか。思われるかもしれませんが、言うな。じゃなくて、そもそも全ての属性の人は本来あなたにも(もちろん僕にも)何か認められなきゃいけない理由がないのです。

なので、何も言うな。と言うよりも大して知りもしないのに知ったかぶるようなこと言わない方がいいですよ。と、思うのです。

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