ミュージカル『ジキル&ハイド』初見感想

ミュージカル初心者だ。2018年に劇団四季『ノートルダムの鐘』を見て以来、劇団四季のディズニーミュージカルを中心に年に数回劇場に足を運ぶ程度のミュージカルファン。最近少しずつ劇団四季以外の演目に興味を持ち出した矢先、石丸幹二が今回で『ジキル&ハイド』を卒業する。ということを知りいてもたってもいられずチケットを確保した。そして見てきた。

石丸幹二はノートルダムのファンである自分にとって少し特別な存在で、といってもアニメーション映画『ノートルダムの鐘』でカジモドを演じたひと。というだけなのだが、それだけで特別な存在なりうるくらいノートルダムは特別な作品であり、その主演を演じたひとは特別なのである。

『ジキル&ハイド』というミュージカルがあるのは知ってはいたが、どんな話かも知らない状態だったのでSpotifyで英語版のサントラをなんとなく聴き、移動中の電車で原作小説(角川文庫版)を読んで臨んだ。

見終えた直後は正直なところ、30年近く上演され続けている演目だけあって曲はいいが、女性キャラクターの扱いが非常に雑で2023年に上演するのであればもう少しどうにかならなかったのか。というネガティヴな気持ちが強かった。とはいえ石丸幹二はセクシーだったし、やっと歌声を生で聴けた(昨年ハリーポッターと呪いの子を見に行ったのだがストレートプレイだった)し、ジキルとハイドの演じ分けも素晴らしかったし、まぁ、見てよかったかな。とぼんやり思っていた。

のだが、2,3日経ってもジキルとハイドが頭から離れない。Youtubeでダイジェストをひたすらリピートで見ている。

ダイジェスト映像

いや、このダイジェスト映像、「石丸ジキル最後の変身」に対し「柿澤ジキル実験開始」ってカッコよすぎんか。発明。未来永劫キャスト交代の度に使い続けられる。そしてハイドのソロがカッコよすぎる。死ぬ。

などと軽くごにょごにょ考え始めたら止まらなくなったので、自分なりに『ジキル&ハイド』を読み解こうと思う。自分なりの読み解きである。考察ではなく読み解きであり、妄想を含む。そしてネタバレはする。日本でもう20年近く演じられているわけですし許してください。

ミュージカル『ジキル&ハイド』という物語

まず、最初の「女性キャラクターの扱いが雑」という印象がズレていたのかもしれない。この物語はヘンリー・ジキルというひとりの男が狂気に駆られ破滅していく物語であり、ヘンリー・ジキル以外のキャラクターはそもそも重要ではないのかもしれない。

ジキルはハイドという存在を自身の中に誕生させる前から自問自答をし続け、他人に意見を求めたとしてもそれで意見を変えるわけでもない。違うそうじゃないなぜわからないんだ。と突き進む姿に、2人のヒロインだけでなく親友であるアターソンもほとんど影響を与えない(与えられない)。その中で唯一ルーシーはジキルが自らを実験台にするきっかけとなる。故にジキルにとって“特別”な存在になりハイドにとって“執着”の対照になる。多くの観客にとってもジキル(ハイド)の次に、その運命もあり強く印象に残るキャラクターになるのではないだろうか。対照的にエマはジキルの婚約者であり出番も多いはずなのに印象に残らない。それはジキルの添え物のように感じてしまったからだと思う。

もちろん2人のメイン女性キャラクターの扱いに関してはその運命は変えなくともアップデートできるのと思うし、企画が進行しているという映画ではそれが叶っていると嬉しい。が、それ一旦置いておく。

つまりミュージカル『ジキル&ハイド』という物語はヘンリー・ジキルという男の一人相撲であり、他人が入り込む余地がほとんどない。他人はいてもいなくてもあまり変わらないのではないだろうか。個人的にはそう解釈した。

ジキルの言う『善と悪』について

今作における「人間は善と悪で構成されている」という理論は正直ピンとこない。事実、実験自体結果的に失敗しているので作中設定としてもそこに関しては否定、もしくは正しくはない。という認識でよいのではないだろうか。

人間の中には善の部分と悪の部分はあると思う。しかし、それが混ざり合ってひとりの人間になっているのであり、そこにいるお前から「悪」を抜いたらお前そのものがお前ではなくなってしまうのでは。「善」だけのお前はもうお前ではないのでは?と。

では、ジキルは薬でなにをどうしたのか。個人的には「善と悪を分離させた」のではなく「自らの中で自制・抑制された内面を外に解放させて“しまった”」のではないかと思う。それがエドワード・ハイド。

エドワード・ハイドは『誰』なのか

個人的にハイドはジキルの中から生まれた別の人格ではなく、ジキルの中に元々存在し、抑制していた欲望や暴力性、願望といったものから構成される「もうひとりのジキル」が自我を持ち「エドワード・ハイド」を名乗ったのではないか。と想像する。

原作小説では骨格から変わるので、この解釈とは異なり、完全にジキルの内面とは別次元のところから来た怪物。という雰囲気があるのだが、別次元から来た怪物ではルーシーに執着する理由が見当たらない(そもそも原作小説にはルーシー自体存在しないが)。

となると、やはりハイドはジキルから生まれた存在。というのが自分の見立てとなる。

ジキルはエマのことを表面的には愛しているということにしているが、そこにはダンヴァース卿との関係性も含まれており、恋愛以外の要員も含んだ婚約なのではないか。実父の病気の一件があったにせよ、あのような結論に達してしまう人間が純粋にひとりの女性を愛する。ということができるのか。お前に愛の何がわかるのか。という疑問も抱いてしまう。

そんな中でルーシーに出会い、惹かれる気持ちもあったのではないだろうか。きっとジキルの人生の中ではルーシーのような女性と出会うこともなかっただろう。その惹かれる気持ちがハイドの執着心になったのではないだろうか。

また、ハイドによるルーシーの殺害は『ノートルダムの鐘』における「私のものにならないなら火炙りにして殺す」に近い気がする。所有欲が満たされないのなら命を奪うことで永遠に自分のものにする。という身勝手な行動だが、ハイドはそれができてしまう。

ハイドの『生きている』という曲も、エドワード・ハイドが生きている。という意味よりも自らを抑制する全てから解放されたヘンリー・ジキルはここにいま生きている。生きているのだ。というニュアンスなような気もする。

ヘンリー・ジキルはエドワード・ハイドを通じて生き、それはハイドはどこまでもジキルである。ということで、逆もまた然り。

この物語はハッピーエンドなのか

結論から言うと、ジキルのものすごく独りよがりなハッピーエンドであったと思う。

自らを実験台にし、自らを怪物にし、自分を見下したひとたちを殺し、ひとりの女性を殺した男が、それをなかったことにして結婚し幸せになろうとしてた時点でお前が幸せになれるわけがないだろうが。という感じなのだが、それでも人間として死ねたジキルを幸せと言わずになんと言うのか。

その一方で、ジキルに関わったひとたちにとってはとんだバッドエンドというか巻き込まれ事故。

ただ、バットエンドだったね。で終わらせるにはあまりにも噛みしめたい感情が渦を巻く。

2人のヒロインについて

エマについて。エマはなんというかジキルに対し、危うい実験をしているなんて夢にも思わない。父親に対しては自立した女性のように振る舞うが、彼女はジキルの表面的な部分だけを見て、ヘンリー・ジキルという夢を見ていたのではないかと思う。ジキルとの関係は必ずしも周囲のひとたちから歓迎されたわけではないが、それも彼女の恋心を加速させる要因になったのかな。と。キャストのインタビューでは芯が通った女性と語られているが、個人的には懐疑的でどこまでも『世間知らずの箱入り娘』という印象だった。

ルーシーについて。ルーシーはどこまでも悲劇的で、この物語の中で誰よりも外側から巻き込まれた人物。その人生も過酷で文字を読むことも得意ではない。強い女性のように振る舞うが暴力に対しては一方的に許しを乞うその姿は見ているだけで胸が締め付けられた。

真彩希帆がインタビューで「ジキルに対し恋心だけではなく安心感や父性への憧れを抱いたいるのではないか」と語っており、ものすごくしっくりきた。ルーシーもまた、ジキルにエマとは違う夢を見ている。しかし、エマよりも博愛的な憧れという感じでそのニュアンスは異なる。また、「ジキルが女性だったとしてもまた異なる物語が構築された」とも語っており、なにそれ…めちゃくちゃ見たいのですが……その他にも真彩希帆の読み解きが素晴らしかったのでパンフレットは本当に買ってよかった。ルーシーのハイドに対する解釈は震えたし、その解釈で演じたということであればそうなのだろう。

少し逸れてしまったが、2人のヒロインは共通して「ジキルに夢を見ていた」のではないか。ジキルとハイド以上に正反対の2人。この2人のデュオも素晴らしかったが、この2人が実際に出会っていたらどうなっていただろうと想像してしまう。

最初は主体性を持たないエマと主体性をモテないルーシーという2人のヒロインなんだな。と思ったけど、いまはそれは間違いだと思う。エマはエマで時代背景的に主体性など持たず男性の添え物であることを求められていて、ジキルを愛する。信じる。疑わない。という意思が彼女なりの主体性であったのかもしれないと思う。ルーシーは言うまでもなく主体性など持ち得ない。でも、街を出られていたら。そんなことを考えてしまう。なんにせよ女性がひとりで自分の人生を歩くことが困難な時代を描いた作品なのだと解釈した。

原作について

ミュージカルを見るにあたって予習に。と読んだが、読まなくてもよかったかもしれない。いや、めちゃくちゃ面白かったのだが、そもそも原作小説とミュージカルでは物語もそのジャンルも違う。ミュージカルがラブストーリーとサスペンスで原作はホラーミステリという感じだろうか。端的にいうと予習にならないのだ。ジキルという男が危険な実験でハイドというもうひとつの人格を生み出してしまう…はある程度知っているわけで。それ以外が全部違う。よくあの原作からミュージカルの物語を作ったと思う。

2人のヒロインも出てこないホモソーシャルな物語であり構造も異なるので、まだどちらも見ていない・読んでいない。という方に対しては原作はほぼ原案であり、ミュージカルの面白さを担保するものではない。ということは言える。また、ミュージカルを見て面白かったので原作を読んでみたい。という方には全力でオススメできる。が、ミュージカルが原作ファンにとって面白いのかは正直わからない。

しかし100年以上前に書かれた小説と舐めてかかったら驚きの切れ味だった。その幕引きは震えるほど痺れた。ちなみに読んだのは角川文庫の新訳版で比較的新しい翻訳であり大変読みやすかった。

まとめ

そんなこんなであーだこーだと考えて書き出したら意外と好きだったんじゃないか。と思えてきた。いや、全然好きなんだけど、自分が思ったよりも好きというか。

どこまでもジキルの独りよがりな物語で2人のヒロインは添え物か巻き込まれるか。という印象は変わらないのだが、結局石丸ジキルに夢中になってしまったのだと思う。長髪の石丸幹二の色気にやられないひとがいるかっての。また、柿澤ジキルもよかった。という声も見聞きするので機会があれば見てみたい。

現在パンフレットにも書いてあった通り映画版の制作が進行しているという。いまこれから映画にするにあたり、やらなくてはいけないのは2人のヒロインを生きた人間として描く。ということだと思う。特にエマ。作中の時代背景的にどうするのかが正解かわからないが、それも含めて楽しみにしておこう。と、思う。

結局のところ魅力満点の石丸ジキル&ハイドにもっていかれた。に尽きる。素晴らしかったです。間に合ってよかった。

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