【10月29日放送】東京ポッド許可局『怖い怖い怖い…が怖い論』がめちゃくちゃ面白かった

今週放送された東京ポッド許可局『怖い怖い怖い…が怖い論』がめちゃくちゃ面白かった。一応書いておくがfunの面白さじゃなくてinterestingの面白さだ。

ざっくりとした内容としては松本人志的な「怖い怖い怖い」といった言葉を使って(誤用して)自分の非を認めずに相手を加害者にするのって怖くない?という話からそれって2ch的ひろゆき的な論点をすり替えであり対話する気が最初からないし冷笑や嘲笑だよね。といった展開をしていった。

これを聞いて

思わずツイートしてしまいました

まぁこのツイートが全部といえば全部なのだけど、もう少し書きたいことがある気がして追記しようと思う。

最近、ここ数年インターネットやSNSをやっていて感じるのが「わかりやすさの罪(砂鉄さんの本そのうち読みます)」や「大きい言葉の強さ」。そんなことないはずなのに前提条件として世の中のことは大きい言葉を使って単純明快に切り分けられる。自分と他人や社会といったものの間に線を引ける。と思うひとがすごく増えた気がする。

あまりYoutuberみたいなひとたちの動画を見ないのでこれはひどい偏見でもあるのだが、自分に見えていないものが存在しないような言い方をするひとが目立つ。それが「そうではないけどそう言ってしまった方が都合がいい」のか「本当にそう思っている・そうだと思いたい」のかはわからないが、これもまた印象で書いてしまうがYoutuberやインフルエンサー、ネット論客みたいなひとたちは前者。そのフォロワーたちは後者なイメージがある。

以前放送された『切り取る論』の中でタツオさんが「代弁してくれるひとを常に探しているんだよ」というようなことを言っていたのが印象的に残っていて、他者の強い言葉に乗っかって自分とは相いれない(と思ってい込んでいる)ひとたちと分断していく。というのは今回の論に通じるものがあると感じた。僕の中では自分と他者、社会というのはグラデーションの中で存在し、たまに近づいたり遠ざかったりするものだと思っているのだが、どうやら明確に線で区切っているひとたちも多いのだな。と思うようになってきた。

自分が否定したものに自分がならない可能性だってあるはずなのに、その想像は最初からする気もなく0か10でものを言ってしまう乱暴さ。車同士の事故だってよっぽどのことがない限り10:0の過失割合にならない。じゃあ人間同士の対話だって7:3や6:4のような落とし所、妥協点を探すべきはずなのに譲らない。論破とか非を認めたら負け。対話にならないする気もない。じゃあその先にあるものはなんなのだろうか。

鹿島さんが「プロレスの技を一般ひとにしちゃいけないのと一緒でバラエティの用語も使うのは危険」ということを言っていたのも印象的だった。以前どなたか芸人が「芸人間のイジリは一般のひと同士でやったらイジメになってしまう。我々はプロの芸人だからできることでそれは一般のひとが不用意にやっていいことではない。」みたいなことを言っていたのを思い出した。いまとなってはそれならば芸人間であっても不用意になるべきではないのでは?と思うし実際10年前に比べたら減ったような気もしなくはない。ほとんどテレビを見なくなってしまったのでわからないが。芸人のラジオを聞いているとそういったことが時代にフィットしていない。ということは認識しているようなのでそうなのだと思う。

そんなことを思いながら聞いていると「被害者ビーチフラッグ」や「先手必敗」といったまた言い得て妙な言葉が生まれていてこの3人の反応速度にやはり驚いてしまった。驚いてしまったし「怖い怖い怖いって便利だな。使いたくなっちゃうな。」と締めに向かっていったのはなんだかすごくよかった。

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