“怪物”と“愛”の物語 劇団四季『ノートルダムの鐘』と『アナと雪の女王』の精神的兄妹性について①

劇団四季『ノートルダムの鐘』のオタクをやらせてもらっている。今回初めて『アナと雪の女王』を見てアナ雪の良さについてあらためていくらでも書きたいのだが、ノートルダムのオタクとして、ノートルダムとアナ雪の精神的兄妹性について少し書きたいと思う。

ノートルダムの鐘は言うまでもなくディズニーアニメーション映画を原作としたミュージカルの中でも屈指の地獄のような作品であり、一方のアナと雪の女王はレリゴーよろしく美しく力強い夢のような作品である。アニメ映画では感じなかった“精神的繋がり”をなぜ感じたか。

ミュージカル化によって強調された作品のポイントに共通点があるのではないだろうか。

ひとつは主人公い与えられる“怪物”という呼び名。

カジモドは生まれ持った容姿によって名付け親フロローから「怪物だ…これは神の裁きだ…」と言い放つ。成長してもその容姿をもってパリの住民から化け物呼ばわりされる心優しき青年。エルサもまた生まれ持った魔法によって怪物と呼ばれる。生まれ持った魔法を誰にも知られないために心を閉し、感じず、ただ城の門が開いたその1日を平穏に過ごすことだけを願う女性であるが、その魔法は人々に知れ渡り恐れられ、怪物と呼ばれてしまう。

容姿が怪物のようだ。と言われるカジモドと容姿は美しいエルサではその“怪物”という言葉の受け方も異なるかもしれないが、共通するのは「本当の自分」を誰にも理解されない。ということだ。理解されたいと願うカジモドに対し、エルサは理解されることその過程で相手を傷つけることを恐れている。アナに対する「失いたくないから離れて欲しい。」という言葉も一見矛盾するようだが彼女なりの精一杯の言葉であり、傷つける恐怖から全てのひとと距離を取るエルサの生きる地獄はカジモドのそれ以上だったかもしれない。

ノートルダムのコピーで「何が人を人間にし、何が人を怪物にするのか。」という言葉がある。

ひとつの自分なりの答えを書くとしたらそれは「愛」である。

カジモドは愛によって人間になり、怪物であることを受け入れ“もう1人の怪物”と戦い、エルサは愛によって怪物であることを否定し人間であることを選ぶ。

容姿が醜いから怪物なのではない。魔法が使えるから怪物なのでもない。

アナ雪のハッピーエンドに対しノートルダムがバッドエンドかと聞かれたらノーを突きつける。カジモドにとっては精一杯のハッピーエンドのひとつだったと思う。その2人に違いがあったとしたらエルサにはアナがいたことだ。無条件でエルサに対する愛を示すアナがいたからこそエルサは愛する故郷を自らの魔法から取り戻すために“人間”でいようとしたのではないだろうか。カジモドにはアナがいない。父であるジェアンが生きていたらきっと違う人生だったであろう。

怪物と人間の間で揺らぐ2人の主人公、カジモドとエルサの物語を来年2023年の5〜8月にかけて同じ場所、四季劇場【春・秋】で楽しめる。昼夜公演や2日続けて見たらきっと相乗するものを感じられると思う。

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