『四畳半神話体系』と『【新釈】走れメロス 他四篇 』を書いた森見登美彦がそのシステムでやりたい放題やっていないの、すごく偉い気がする

タイトルの通りだ。『四畳半神話体系』と『新訳走れメロス』を書いた森見登美彦がそのシステムでやりたい放題やっていないの、すごくえらい気がする。気がするだけかもしれない。

森見登美彦との出会いは15年ほど前になるか。『夜は短し歩けよ乙女』だった気がする。高校生だった自分にとって「単行本」というのは1,000円を超えるため、滅多なことがなければ買わないのだが、アジカンのファンだった自分が中村佑介が描いた表紙に釣られてまんまと買ってしまった。

それ以降学生時代に『四畳半神話大系』や『太陽の塔』、『有頂天家族』などを読み社会人になるにつれて小説を読むことそのものが億劫になり現在に至る。

現在の森見登美彦との距離感は『四畳半神話大系』や『夜は短し歩けよ乙女』の映像集団が作った新しいものは積極的に見たい。であり、『四畳半タイムマシンブルース』を毎週ホクホクしながら見ている。とても面白い。

『四畳半タイムマシンブルース』を見るにあたり『サマータイムマシンブルース』の映画を見たのだが(それ以前にも見たことがあるはずなのに全然覚えていなかった)、思っていた以上に『四畳半タイムマシンブルース』が『サマータイムマシンブルース』で驚いた。まさか犬の名前「ケチャ」まで同じとは。原作未読の初見、2話時点での印象なのでこれからどんどん変わっていくのかもしれないが。

そこで思い出したのは『【新釈】走れメロス 他四篇』だ。

『走れメロス』や『山月記』、『藪の中』といった小説を現代を舞台に再構築したパロディ(と言っていいのかわからないが)短編集。

そして『四畳半神話大系』は同じ登場人物による異なる世界線を描いた小説である。ここまで書いてアニメと原作小説では結構違った気がしてきた。まずい。

ともかく、『四畳半タイムマシンブルース』は『四畳半神話大系』と『サマータイムマシンブルース』が悪魔的合体をしただけでなく、『【新釈】走れメロス 他四篇』があったからこその高度な置き換えができたのではないか。と。

ともかく、あらゆる世界を『四畳半神話大系』の世界で再現することができ、それをサザエさん方式よろしく無限に作り出せる舞台装置を持ってしまった森見登美彦が現状『四畳半神話大系』と『四畳半タイムマシンブルース』、『四畳半王国見聞録(こちらは読んでいないので同シリーズなのかわかりかねるが)』しかシリーズで書いていないの、すごく偉い気がする。

ファンは四畳半の世界を無限に読みたいと思うし、舞台装置としては作れてしまう(作者本人がやりたいかどうか、書けるかどうかは別として)。それをやらない森見登美彦は偉い。

偉い。と言いつつ、『【新釈】走れメロス 他四篇』の第2弾をやるとしたら「読者がパロディだとわかる知名度の小説」が必要だったり、『四畳半タイムマシンブルース』にしてもキャラクターの置換えがかなりうまくいかなければいけない。ものすごく高度な技術なので枠にはめる労力を考えたら素直に全然違うものを描いた方が楽しいかもな。とか、どこにも落ちない記事になってしまった。

いや、『四畳半王国見聞録』の存在そのものを知らなかったのでこれを機に読んでみようと思う。

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