【観劇感想】舞台 ハリー・ポッターと呪いの子

本日2022年11月5日(土)舞台 ハリー・ポッターと呪いの子を見てきました。5月のチケット発売日から半年間楽しみにしつつ、幕が上がることが必ずしも当たり前でないことを忘れないようにしてはいたのですがいざ当日になってみると「やっと見られる」という気持ちがでいっぱいになりましたし、中止になるなんて思いもしなかった。舞台もそれはもう面白く、大満足。ただ、まさか自分たちが見た日の夜公演が中止になるなんて。

そういう経緯もあるため、この感想を読んで気分を害する方もいるかもしれませんが個人の記録として残しておこうと思います。また、ネタバレに関しましても多分に触れる内容になります。ご容赦ください。

ハリポタ世界に包まれた赤坂

まず、赤坂駅に着いた瞬間から気分が上がってしまいました。だって駅を出た瞬間にお馴染みのBGMが流れててハリポタの世界観に彩られた街並み。心なしか歩いているひとたちもホクホクしている。ホグワーツのローブや制服、ハリポタやファンタビのキャラクターや寮のイメージしたファッション(ちなみに僕はこれ。スリザリンカラーのセットアップにタリーズで売ってたスリザリンとハッフルパフのタイスカーフを巻いていました)をしているひと and more…街全体がちょっとしたお祭り感をまとっていて最高。

グッズショップやカフェが予約制・整理券制というのを知らなかったので入れませんでしたがタリーズでコラボドリンクは飲みました。他のお客さんの大半も頼んでいてやはり少し嬉しくなる。

素敵な本日の出演キャスト

本の背表紙に出演キャストの名前と役名が

エントランスに入場すると人だかりができていてみんなが写真を撮っていることでなんだろう…と思ったらこれ…カッコよすぎる…

ハリーの物語でもあり、その息子アルバスの物語でもある『呪いの子』

今回の物語、ハリーの息子アルバスを主軸としながら場面場面で中央にいるキャラクターが変化していくのが面白かったです。ハリーはもちろん、ドラコの息子スコーピウスがメインを張ったときには「まさかこのままスコーピウスが主役になっていくのか…?」とか思ったりしましたがそんなことはありませんでした。でもメイン張ってたスコーピウスは魅力満点だったし、それも見たかった。

呪いの子の上演が海外でも始まる前だったか、ハリーの息子アルバスはスリザリンでドラコの息子と仲良くなる。という話だけを聞いたときハリポタを履修する前だったのもあり「なんで?」と思ったのですが、いまならわかる。互いの親こそ正反対だが“名高い”親を持つ子という面ではそっくりの2人、シンパシーを抱くよね。そしてその2人が2人なりに真っ直ぐ育っているのがまた少し泣けてくる。

呪いの子はハリーはアルバスを通じて、アルバスはハリーを通じて成長する物語であったと思う。

英雄であることと良い父親であること

今作でこれでもか。と描かれたのがハリー・ポッターであることが理想的な父親であることとは必ずしもイコールではない。ということだ。その物語は生々しく、しかし意外性もなく劇中のハリーの言動一つひとつが非常に「ああ、ハリーってこういう奴だったな。」と納得度の高いものであった。本心であるかは別として相手が一番傷つく言葉を選ぶことができる男。

そんなハリーと対照的に描かれていたのがドラコ・マルフォイだ。まさかここにきてドラコの株がさらに上がるのは想定外であった。ドラコに関しては常に父親に支配された人生を送りつつも一線を越えない強さ(越えられない弱さだとは思わない)だと思っており、その人間臭さと葛藤を知ってから嫌いになれないキャラクターであった。

そしてそのドラコの父親像は息子スコーピウスに向ける愛情は真っ直ぐとは言えないかもしれないが、ハリーに比べたらよっぽど真っ当に息子を想うものであった、個人的にドラコが過去を振り返り過去の自分が「孤独」であったと認めたシーンに落涙してしまった。ドラコはその過去を受け入れられるようになったのだ。

しかしそれはハリーも同様で、ダンブルドアの“記憶”に対し自らの孤独をぶつけるまさか3児の父親とは思えないその言動に対しても誰にも本当の意味で理解されない人生を歩んできたハリーにとっては切実なものであるのは間違いなく、その心情の吐露に涙した(あそこに関しては石丸幹二が上手すぎたのでは?)。

セドリックという犠牲

僕は以前良い加減ハリポタを履修しよう。と見ている最中に炎のゴブレットでのセドリックの死に耐えられず続きを見られなくなった。という過去を持っているのだが、今作でセドリックが救われることはなかった。

どうにかこうにかすり抜けてセドリックが生きている未来にたどり着くラストを想像しなかったと言えば嘘になる。結局セドリックを救うことは出来ない。セドリックは死んだままでその父親も子の死を嘆き続けるのだろう。

しかし今回の冒険で死ぬ間際のセドリックが父親の愛情を人伝にとはいえ受け止めたシーンは素晴らしかった。あの短時間の出演ながらセドリックであること。それが優秀な生徒であることを説得力を持って演じられた“あの”俳優さん素晴らしかったです。いいセドリックだった。

そしてその永遠に救うことのできない“犠牲”に対し“忘れない”ハリーもとてもよかった。残された人間ができることはせめてその犠牲があったことを忘れないことだ。

舞台作品であることと映像化について

他にもマクゴナガル先生が推しという話や急遽嘆きのマートルを演じた佐竹桃華が最高だったことも書きたいのだがキリがない。キリがないのでここらで一旦まとめようと思う。

つい先日、というか昨日とか今日とかに「ワーナーがファンタビを打ち切って呪いの子を映画化するつもり」という噂を目にした。ファンタビに関してはエディ・レッドメイン演じるニュートを別の形で今後も見られるならまぁそれはそれで。という感じなのだが、今回『呪いの子』を見て映像化はできると思った。

映像化はできると思ったと同時に、これまでの映像作品のファンであればファンであるほど納得度の高い満足できる映像作品を作るのは難しい。と感じた。というのも、今作がBTTF2やエンドゲームの2幕といった過去に映像化されたものを別の角度から見る。というものになっていることだ。

正直技術的にはできるのではないか。と、思う。が、それを見たいかというと間違いなくノーである。ディープフェイクでの再現に対する是非と亡くなってしまった演者をどうするかだ。個人的にはディープフェイクは存命の俳優であればまぁ。だが、亡くなってしまっている場合は明確にノーを突きつけたい。と思っている。ローグワンの言葉を発しないレイア姫がギリだ。

舞台の上で起こっていることに想像力を使ってようやく成立するのが『呪いの子』だ。そして間違いなくハリポタシリーズの続編であった。本当に面白かったし見られてよかった。

映像化に関しては呪いの子よりも若かりし日のマクゴナガル先生の物語とかが見たいのでよろしくワーナー。

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