三木有『静と弁慶』が素晴らしかったのとマンガの感想における「まるで映画のような」について

“読切”が好きだ。1話で終わるし続きが読みたいくらいがちょうどいい。と思っている節。

タイムラインに流れてきた三木有『静と弁慶』を何気なく読んだらとんでもなく好みのマンガだった。

中学3年生の静と弁慶は幼い頃に“なぎなた”を通じて出会い、成長する間「演技(なぎなたには演技と試合があるとのこと。知らなかった。)」のチームメイトであった。舞台はその2人が2人でなぎなたを振る最後の1日。

とにかくいい。絵が上手いのは言うまでもない。その物語の中に流れる空気や時間の演出が見事でセリフも多くはない。主人公のひとりである静に至っては中盤までほとんどセリフがない。だからこそ登場人物の独白にドッと感情を揺さぶられた。

セリフが少ないからこそ一つひとつのセリフの意味を考えてしまう。

今作においてその最たるものが「がんばろう」だろう。

おそらく静の回想の中で何度も弁慶から言われリフレインされた「がんばろう」。
「試合」と「演技」の2冠を期待されていた静に対し、「演技」で負けてしまった弁慶が罪悪感からか静に対し「ごめん」と言い、「何が」と静が返す。読みときが間違っていなかったら静の方がメンタル面において不調であり、弁慶には(少なくとも静からしてみれば)非はない。

翌「試合」の日、弁慶が言う「がんばってな」は静にとって激励ではなく、昨日までと全てが変わってしまった。という意味であったのだろう。ずっと弁慶が「(お互いに)がんばろう」と言ってくれたのが一方的な言葉に変わる。それは弁慶から静への別れの言葉であり、弁慶となぎなたとの別れでもある。

静はそれを受け入れず、受け入れられずに弁慶に対し、(きっと初めての)「がんばろう」を言う。

2人が共に過ごしてきた年月に、そしてこれから別の道を行く2人に思いを馳せてしまい、胸がいっぱいになってしまった。

主人公2人の間に流れる空気感もとてもよかった。数年前なら少年マンガであれば男女の話であれば当然のように恋愛が描かれていたが、本作ではそのような描写もない。

それが直接いい悪いという話ではなく、2人の間にある感情が、関係が、より純度の高いものに見え、この辺はとても現代的だと感じた。

話は少しずれるがマンガを読んだときの表現として「まるで映画のような」という言い回しがあるが、あまり好きではない。マンガも映画も物語(フィクション)を語るという意味では同列別媒体だと思っている。実際映画を作りたかったがチームプレイが苦手なために個人で描けるマンガを選んだ。とインタビュー等で言う作家は何人も見てきた。

ではなぜ、今作(に限った話ではない)が「まるで映画のような」と言われるかといえば今作が読切1話完結。というのもあるとは思うが「映像的表現」を上手にマンガに落とし込んでいるからだと思う。要は間の演出とでも言おうか。この手の演出は浅野いにおや藤本タツキなんかが抜群に上手い。三木有もまた、そういった表現が上手いのだろうか。今作しか読んだことがないのでわかりかねる。

ポジティブに「まるで映画のような」を解釈してみたが、そう言えば上手く言ってるように聞こえる。というのもあるだろう。しかし、つまらない映画はあるし当然マンガでも然りだと思う。この言い回しは特に何も言っていない。むしろまるで映画が漫画よりも上かのような言い方ではないか。そんなことはないだろう。

読み返しているとセリフや演出に気を取られるが、コマ割りが横の段組みしか使っていないことに驚く。スマートフォンで読まれることを意識しているのだろうか。

こういうものはジャンプ+でずっと読めるものなのか。ずっと思っているのだがジャンプに限らず過去一度でも雑誌に掲載された読切が読めなくなってしまうのって損失なのではないだろうか。

一部の人気作家になると連載前の短編集などが発売されるが一定期間を経てKindleとかで売ってほしい。言い方が悪いかもしれないが連載できなかった作家にとっても収入になるだろうし、連載作家たちの過去作も読みたいではないか。いまだったら堀越耕平の『テンコ』とか読んでみたいのだが。

集英社、頼む。読切売ってくれ。多少割高でもいいから。

2022-09-09|
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